軽自動車 旅 … できたら日本一周と100名山登攀(4)秋田、青森編

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軽自動車ひとり旅の続きです。八幡平を歩いた後、秋田県を通過して青森県に入りました。百名山は、八甲田山を登攀。

2023年7月2日(日)

小坂鉱山(秋田)

八幡平(岩手県)から八甲田山登攀のために青森県へ向かう途中、秋田県の小坂町でかつて栄えた小坂鉱山に立ち寄りました。

小坂鉱山は、1861年に金、銀の鉱山として開発が始まりました。1901年には、銀の生産高日本一の鉱山となりましたが、その後、閉山の危機もあり、それらの危機を技術で乗り越えて、1990年の採掘終了、閉山まで稼働を続けました。現在は、「リサイクル精錬」として、鉱山事業で築かれた技術をもとに、廃却された電子部品(都市鉱山)から貴金属(金、銀、銅、レアメタル)を回収する事業で生まれ変わっています。

現在、鉱山跡地には、鉱山繁栄の明治時代に建てられた「小坂鉱山事務所」「康楽館」「旧小坂鉄道小坂駅舎」などがあり、明治村のようになっています。

鉱山跡地通り雰囲気

小坂鉱山事務所

康楽館

旧小坂鉄道小坂駅舎

小坂鉱山事務所は見学ができ、中には、小坂鉱山の説明資料が展示されています。その展示資料から、小坂鉱山で尽力した人達に感じるものがあったので、以下にまとめてみました。

クルト・ネットー(Curt Adolph Netto)

小坂鉱山の創設時に尽力した人物としてドイツから来たクルト・ネットー(Curt Adolph Netto)がいます。ネットーは、1873年(明治6年)に鉱山兼製鉱師として日本政府に招かれ、小坂鉱山に赴任しました。(当時26歳…昔の人は若くても凄いです。) ネットーは、ドイツ式の最新鋭の精錬法を導入して、銀の回収率を高めることに成功し、1881年には銀の生産量日本一となりました。 ネットーは、1877年まで小坂鉱山に赴任していました。ネットーは絵が得意で、日本滞在中に幾つものスケッチを残しています。中でも、彼が小坂鉱山で催したクリスマスパーティーのスケッチは、日本で初めてのクリスマスパーティーの記録となります。

ネットーについて、さらに詳しくは、 http://shilin1997.blog.fc2.com/blog-entry-520.html

久原房之介

小坂鉱山は、1901年には、銀の生産高が日本一の鉱山になりましたが、銀鉱石の枯渇により業績は悪化、ついに閉山の危機となりました。その閉山処理のために小坂鉱山に派遣されたのが、当時、28歳の久原房之助でした。久原房之助は、現地に赴任すると閉山業務ではなく、優秀な技術者を集め、銅の精錬法の開発にあたらせました。久原房之助は、小坂鉱山に眠っていた黒鉱に着目しました。黒鉱は、亜鉛、鉛、銅を含んだ鉱石で金、銀を伴うものもありますが、各金属に分離するのにコストがかかるため、当時は商業的に見捨てられていました。久原房之助は、新たな精錬法(自熔精錬法)の開発に着手し、1902年にその精錬法での精錬所を完成させ、稼働を開始しました。この結果、小坂鉱山は一躍世界有数の銅鉱山に飛躍しました。久原房之助率いる技術集団は、鉱山の開発に加え、働く人々の生活基盤の整備として、住宅を整え、購買施設を準備し、病院を作り、公園や劇場を作るという計画を立て、この地にユートピアを実現しようとしました。久原房之助は、このユートピア実現に覚悟を決め10年あまり小坂鉱山いましたが、久原房之助が小坂鉱山を私物化するのを恐れて、小坂鉱山の持ち主である藤田組が久原房之介を本社に呼び戻してしまいました。久原房之助は、藤田組経営陣と意見が合わなかったことから、藤田組を離れ、その時得た資金で、日立鉱山を買収して、その開発に取り組みました。この日立鉱山が、後の日本鉱業になります。

私事ですが、大学を卒業して入社した会社が、この日本鉱業です。同期には、鉱山や精錬専攻の仲間もおり、彼らは鉱山に赴任して行きました。新入社員教育で、創業者である久原房之助についての話もありましたが、その当時は、あまり感じるものはありませんでした。歳を取った今、久原房之助の足跡を見ると強く感じるものがあります。私も、鉱山の仕事ではありませんでしたが、日立鉱山跡地に勤務していました。今振り返ると、その地には、ユートピアに取り組んだ痕跡が見られました。

小平浪平

日立鉱山には、久原房之助と小坂鉱山時代にともに働いた「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材がいました。その中に、小平浪平がおり、彼は、日立鉱山の電力・機械・土木関係を一手に引き受ける工作課の課長でした。小平浪平は、輸入に頼っていた機械の修理をすることによって、その原理や技術を学び、国産初の発電機の開発に成功しました。そして、機械製造業への進出の熱意から独立を果しました。こうして誕生したのが、日立製作所です。

現在の精錬所

偉業には、ストーリーがありますね。共通するのは、若者の理想、熱意、行動力でしょうか? 移動途中に、たまたま立ち寄った小坂鉱山に感じるものがあり、こんなに書いてしまいました。

本日終了。「道の駅 いかりがせき」(青森県)で車中泊。

7月3日(月)

黒石市(青森県)

今日は天候が不順のため、八甲田山は明日登ることとし、準備日としました。まずは、宿泊予定の「道の駅 虹の湖」へ移動。その途中にある黒石市の「浅瀬石川ダム」を見学。

ダム近くの「温湯温泉」で入浴。温湯温泉は、入浴料がなんと300円でした。

こんな風情のある建物も・・・

本日終了。「道の駅 虹の湖」で車中泊。

7月4日(火)

八甲田山(百名山)

今日は、八甲田山(標高1584m)登山。前回の岩手山登山で疲れたので、八甲田ロープウェイの9:00の始発で標高1300mまで上がります。約10分で山頂公園駅に到着。そこから八甲田山の最高峰の大岳まで登頂開始。往復約4時間半の行程です。

ロープウェイからは、青森市、津軽海峡が一望。

一番右の山が、これから目指す大岳です。

山頂近くの残雪斜面では、スキーをしている人がいました。ここまで、スキー板を担ぎ上げたんですね。

コースには、短いですが残雪地帯がありました。八甲田山も火山活動でできた山なので、火口が確認できます。そして八甲田大岳登頂。

山の標高が低いところは樹林帯で、虫が多く、歩いていると虫が(特にハエ)まとわりついてうっとしいので、一関の元同僚から効果があると聞いたオニヤンマの虫対策グッズをコメリで購入し、付けて歩いてみました。(頭に付けなくてもいいんですけど。)何となく効果があるような感じでした。

八甲田山の花。帰りもロープウェイで下山です。

本日終了。「道の駅 奥入瀬ロマンパーク」(青森県)で車中泊。

道の駅で、ご当地 桃川のにごり酒を買って、楽しみました。

7月5日(水)

十和田湖、奥入瀬渓流、八戸(青森県)

今日は、十和田湖と奥入瀬渓流を自転車で廻ります。

十和田湖から奥入瀬渓流に水が流れ出す子の口(ねのくち)の駐車場に車を駐車し、自転車準備。

まずは、十和田湖畔を乙女の像を目指してサイクリング。水曜日の午前中は、まったく観光客がいません。

十和田湖畔から奥入瀬渓流沿いにサイクリング。行きは下りで楽ですが、帰りは登りとなるため銚子大滝を見て引き返しました。

昼ご飯に、十和田湖名物「十和田バラ焼き」を食べました。十和田にある「食堂 上高地」です。

午後は、八戸に移動。

葦毛崎展望台を見学。葦毛崎展望台は、太平洋戦争の軍事施設の遺跡です。現在は、展望台となっています。

次に、ウミネコの繁殖地となっている蕪島(かぶしま)神社を見学。神社がウミネコに占拠されていました。

本日終了。「沼館緑地公園」(青森県)で車中泊。

7月6日(木)

陸奥湊、三沢航空科学館(青森県)

八戸の陸奥湊駅前にある小売市場では、毎朝早朝から朝市が出て、そこでご飯が食べられるということを知って、朝6:00に小売市場に向かいました。6:00なのに、もうすでに朝市のピークは過ぎたような雰囲気で、人は多くはありませんでした。

小売り市場には幾つものお店がならんでおり、そこから好きなものを買って、市場の端に設置してある飲食コーナーでご飯とお味噌汁を購入して食べることができます。自分は、写真のパック3つを買って朝ご飯としました。左のパックから、100円、250円、500円でした。

朝ご飯後、八戸を後に、海岸線を北上して三沢に向かいました。三沢では、「三沢航空科学館」を見学しました。三沢航空科学館は、三沢空港、航空自衛隊三沢基地に隣接したところにあります。

ここ三沢は、1931年(昭和6年)に、2人のアメリカ人が世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した離陸地でした。三沢航空科学館の入口には、その記念モニュメントがあります。

館内に入ると、まず展示されているのは、横断飛行に成功した飛行機(ミス・ビートル号)の展示と2人のパイロットの偉業達成のストーリー紹介です。当時三沢には、ミス・ビートル号が離陸できる長い滑走路がなかったため、三沢の人々が協力して淋代(さびしろ)海岸を整地して滑走路を作ってあげ、また、2人のアメリカ人の滞在の世話をして、友好な関係を築いたそうです。そのような築きもあったにも関わらず、日本はアメリカとの戦争に突入していきました。

写真が、ミス・ビートル号が離陸し、旅立った淋代海岸です。ここからアメリカへ・・・

館内奥に、HondaJet が展示されており、その開発ストーリーが紹介されていました。主任設計者の藤野さんは、小学校から高校まで青森県弘前市で育たれたそうです。この開発ストーリーを見ると、これも凄い背景があったんだなと感無量となりました。

あとは、館内に YS-11、屋外に戦闘機の展示がありました。

次に、宿泊のために、むつ市に移動し、「早掛レイクサイドヒルキャンプ場」に泊まりました。時々、キャンプ場に宿泊するのは、車中泊で溜まったゴミを捨てるためです。旅行中、家庭ゴミを捨てる場所が無いため(道の駅も含めて)、時々キャンプ場に宿泊してゴミを捨てさせていただいております。こちらのオートキャンプ場は料金が安く(これまでで一番安い)、1730円/泊 でした。

本日終了。「早掛レイクサイドヒルキャンプ場」(青森県)で車中泊。

7月7日(金)

釜臥山(かまふせやま)展望台、恐山、大間

今日はキャンプ場を後にして、まず、むつ市の北側の山にある「釜臥山展望台」に行きました。ここは、陸奥湾が一望できる展望台です。

ここからの夜景がきれいとのことで、街の灯りがアゲハチョウのように見えるそうです。

もう一つ目を引くのは、展望台の回りに航空自衛隊のレーダー基地があることです。写真左のレーダーは、形がガメラのように見えることからガメラレーダーと言われているそうです。

釜臥山展望台へは、山深い道を行くのですが、途中、野生の猿に出会いました。ここの猿が、日本の野生の猿の北限だそうです。

次に、恐山に向かいました。

恐山の手前に、写真の三途川がありました。

昔から、多くの人々が訪れていることが伺われます。

恐山を後にして、ついに本州最北端の大間に着きました。

まずは、遅くなった昼ご飯を食べました。大間ですから、「マグロ・ウニ丼」を食べました。ウニは、自分の中では、一関の富澤のウニ丼がこれまででは最高ですね。もう20年以上も食べてませんけど。

大間の海を眺めていました。明日乗る函館行きのフェリーが出航して行きます。

そして、今日の陽が沈みます。

今夜は、ここ大間崎にある「大間崎テントサイト」で車中泊です。無料です。すばらしい!

本日終了。「大間崎テントサイト」で車中泊。

いよいよ明日は、ここ大間から、朝7:00出航のフェリーで函館(北海道)に渡ります。

コメント

  1. みく より:

    刺身パック買ってオリジナル定食にするの最高だね、、!

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